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March 1231998

 先代の顔になりたる種物屋

                           能村研三

物は、野菜や草花の種のこと。それを売るのが種物屋。花屋とはちがって、種物屋は小さくて薄暗い店が多い。作者は毎春、決まった店で種を求めてきたのだろう。主人が代替わりしたほどだから、店との付き合いもずいぶんと長い。気がつくと、二代目の顔が先代とそっくりになってきた。ときに、先代と向き合っているような錯覚さえ覚えてしまう。対象が命の種を商う人だけに、生命の連続性に着目したところが冴えている。そっくりといえば、谷川俊太郎さんが亡き谷川徹三氏に間違えられたことがあった。二年ほど前だったか、句会の後である庭園を歩いていたら、いかにも懐しそうに詩人に声をかけてきた老人がいた。詩人としては記憶にない人なので曖昧な応答をしているうちに、父親と間違えられていることに気がついた。で、そのことを相手に告げようとしたのだが、少々ボケ加減のその人には通じない。ついには記念に一緒に写真に写ってほしいと言いだし、老人は満足化に「谷川徹三」氏とのツー・ショット写真に収まったのだった。見ていたら、詩人のほうはまことに生真面目な表情で撮されていた。そういえば、句の作者も俳人・能村登四郎氏の三男だ。「春の暮老人と逢ふそれが父」という、息子(!)としての作品がある。(清水哲男)


May 1751998

 満塁や青芝遠く緊張す

                           佐久間慧子

の知るかぎり「満塁や」と詠んだ句はこれまでにない。珍品(?)である。作者は阿波野青畝門で関西の人らしいから、甲子園球場だろうか。ドーム球場の人工芝とちがって、天然の青芝はあくまでも目にやさしい。見つめていると、ぼおっと芝生に酔ってしまうときもあるほどだ。そんななかで、ゲームは満塁という緊迫感。こうなると、熱狂的な野球好きであれば、芝生なんぞは目に入らなくなるはずだが、作者は遠くの青芝をうたっている。つまり、作者はそんなに野球そのものに熱が入らない人だと見た。いつのころからか、歳時記には「ナイター」などという和製英語の季語も載るようになったけれど、そうした季語の用例に引かれている句を見ても、シンから野球の面白さを伝えている句を、残念ながら見たことがない。能村研三に「ナイターの風出でてより逆転打」と、多少マシな句もあるが、これとても私には呑気すぎて到底満足とまではいかないのである。もっともっと野球に没入した作品を探している。「俳句文芸」(1998年5月号)所載。(清水哲男)


July 0672005

 寝不足にやや遠ざけし百合の壺

                           能村研三

語は「百合」で夏。「寝不足」がたたって、体調がよろしくない。それでなくとも百合の花の芳香は強いから、こういうときにはいささかうとましく感じられるものだ。そこで、飾ってある壺を少しだけ遠ざけたと言うのである。花粉が飛び散らないように、そろそろっと壺を押しやっている作者の手つきまでが見えるようだ。このように、体調如何によって人の感覚は微妙に変化する。その昔の専売公社の宣伝に「今日も元気だ、煙草がうまい」というのがあったが、これなどもそのことをずばりと言い当てた名コピーだろう。だから、誰にとっても常に美しかったり常に美味かったりする対象物はあり得ないことになる。すべての感覚は、体調や、それに多く依拠している気分や機嫌の前に、相対的流動的なのであって定まることがない。ただ哀しいかな、私たちがそのことを理解できるのは体調不良におちいったときのみで、いったん健康体に戻るや、けろりと「永遠絶対の美」などという観念に与したりするのだから始末が悪い。飛躍するようだが、テレビなどという媒体は、視聴者が全員元気であることを前提にしている。したがって、身体的弱者や社会的弱者へのいたわりの気持ちが無い。早朝から天気予報のお姉さんがキャンキャン言い募るのも、視聴者がみな熟睡して爽快な気分で目覚めていると断定していることのあらわれで、句の作者のような状態ははじめから勘定の外にあるわけだ。やれやれ、である。『滑翔』(2004)所収。(清水哲男)


November 17112005

 書庫梯子降りずに釣瓶落しかな

                           能村研三

語は「釣瓶落し」で秋。夕陽の沈み方の例えだが、なるほど秋から冬の日没はあっという間だ。誰が言い出したのかは知らねども、うまいことを言ったものである。もっとも、最近では「釣瓶(つるべ)」そのものが無くなってきたので、我々の死後には確実に死語となるだろう。誰か、いまのうちにうまいこと言い換えておけば、近未来の季語として認知される可能性は大である。それはさておき、掲句の面白さは、どこにあるのだろうか。「書庫梯子」は、そんなに高くはない。高くても、せいぜいが大人の背丈くらいかな。書庫は書籍を保護する必要上、明かり取りの窓は大きく作られてはいない。小さな窓が、天井に近いところあたりにぽつりぽつりとつけてある。だから、床に立っていると表は見えない理屈だが、著者は梯子に乗っていたので、たまたま見える位置にいたわけだ。資料探しに夢中になっているうちに、ふと外光の変化に気がついた。で、小さな窓から表を見やると、まさに釣瓶落しの秋の陽が沈んでゆく。もうこんな時間か、そろそろ引き揚げなければ。と思いつつも、そのまま作者は梯子を「降りずに」、しばし釣瓶落しに魅入られたかのように動かなかったのだった。降りる夕陽と、降りない私と……。もとより夕陽と私の位置の高さはとてつもなく違うのだけれど、そういうことに関係なく、巨大な夕陽が早く降り、小さな私が降りずにいるというコントラストには微笑させられる。私もそうだが、たいていの人は書庫や図書館から出てくると、人工的な町並みよりも並木だとか遠い山並みなどの「自然」にひとりでに目がいってしまうものだろう。それを梯子のおかげで、本だらけの環境のなかで体験できたと詠んだところに、作者の鋭敏な神経が見てとれる。現代俳人文庫『能村研三句集』(2005・砂子屋書房)所収。(清水哲男)


March 1432006

 つちふるや埃及といふ当て字

                           能村研三

語は「つちふる」。春、モンゴルや中国北部で強風のために吹き上げられた多量の砂塵が、偏西風に乗って日本に飛来する現象。気象用語では「黄砂」と言う。空がどんよりと、黄色っぽくなる。「つちふる」を漢字で書けば「霾」と難しい字で、この文字自体からも何やらただならぬ雰囲気が感じられる。さて、掲句の「埃及」は「エジプト」の漢字表記であり、作者は「つちふる」からこの表記をすっと連想している。「埃及」と見るだけで、なんとなく埃っぽい土地を思ってしまうが、実際、エジプトはあまり雨も降らないので埃っぽいところのようだ。ただし「埃及」は昔の中国の表記をそのまま日本が取り入れた言葉だそうで、古い中国語では外国を表記するときに、意味内容よりも音韻的な合致を重視したはずだから、この語に接した当時の中国人には埃っぽいイメージは感じられなかったかもしれない。でも、もしかしてイメージ的にも音韻的にも合致していたのだとしたら、これはたいした造語力である。句に戻ると、私たちの連想はむろん自由にあちこちに飛んでいくわけだが、俳句の世界からすると、この句のように自然現象から言葉それ自体へと飛び、その連想をそのまま句として成立させた作品は案外少ないのではないかと思われる。多くの句は自然に回帰するか、自然を呼び込もうとしているからだ。べつに、どちらがどうと言いたいわけじゃないけれど、句の「埃及」が眺める程にくっきりと見えるのは,きっとそのせいだろうと思ったことだった。「俳壇」(2006年4月号)所載。(清水哲男)


October 19102010

 アクセル全開秋愁を振り切りぬ

                           能村研三

つもはごく温厚な人がハンドルを握ると、とたんに性格が変貌し大胆になるというタイプがあるらしい。常にないスピード感やひとりだけの空間が心を解放させるのだろう。掲句が荒っぽい運転とは限らないが、どこかいつもとは違う攻めの姿勢を感じさせる。秋の心と書く「愁」が嘆きや悲しみを意味させるのに対し、春の心と書く「惷」には乱れや愚かという意味となる。それぞれの季節に芽生える鬱々とした気分ではあるが、春は軽はずみなあやまちを招くような心を感じさせ、一方、秋の気鬱は全身に覆いかぶさるような憂いを思わせる。常にない向こう見ずなことをしなければ、到底振り切ることなどできない秋愁である。猛スピードで振り切った秋愁のかたまりをバックミラーの片隅に確認したのちは、わずかにスピードをゆるめ軽快な音楽に包まれている作者の姿が浮かぶのだった。〈男には肩の稜線雪来るか〉〈里に降りる熊を促へし稲びかり〉『肩の稜線』(2010)所収。(土肥あき子)


September 0192015

 厄日来て糊効きすぎし釦穴

                           能村研三

日は立春から数えて210日目。この時期は台風の襲来などで農作物に被害を受けることが多いため、厄日として注意をうながした。先人の経験によって、後世に自然災害のおそろしさを呼びかけ、またある程度のあきらめも許容しなければならないものという思いが見られる。掲句はきちんと糊の効いたシャツに腕を通す心地良さから一転し、糊でつぶれてしまった釦穴に釦を押し込もうとして募るイライラにふと、「いいことばかりは続かない」などという言葉も浮かぶ。「厄」の文字は、は厂(がけ)の下に人が屈んだかたちを表す。見れば見るほど、おおごとが起こりそうな、胸騒ぎを感じさせる文字である。〈馬通す緩ききざはし秋気満つ〉〈胡桃には鬼と姫の名手に包む〉『催花の雷』(2015)初収。(土肥あき子)


November 07112015

 秋灯に祈りと違ふ指を組む

                           能村研三

感の中でもっとも失われる可能性が低い、つまり生きていく上での優先順位が高いのが触覚で、特に手指の先に集中しているという。そう言われてみると、ヘレンケラーも指先に触れた水の感覚に何かを呼び覚まされたのだった。もし今光と音を失ったとしても、大切な人の頬を両手で包みそして包まれれば、そこには確かなものが通い合うだろう。そうやって生きている限り、手指は言葉以上に語り続ける。掲出句、気づいたら無意識に祈るような形に指を組んでいた、というだけなのかもしれない、そんな秋の夜。あるいは、その手指は二度とほどかれることはなく、その瞳も開かれることは無いのかもしれない。作者が見つめる組まれた指は、ひとつの人生を終えた持ち主と共に長い眠りにつく、とは、父の忌を修したことによる感傷的な解釈か、と思いつつ更けゆく秋の夜。『催花の雷』(2015)所収。(今井肖子)




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